LOGINあれから叶わぬ慕情を抱き、あれこれと思い煩っていると、気がついたら朝陽が昇っていた。
|墨余穏《モーユーウェン》は寝台から気怠く起き上がり、椅子に掛けておいた黒い衣に着替え、書いておいた呪符を胸に忍ばせて部屋を後にする。 宿屋を出てすぐ、|一枚の神通符がこちらに向かって飛んで来るのを感じた。 |墨余穏《モーユーウェン》は右手でそれを瞬時に掴み、神通符に書かれてあった文字を読む。 『|鳥鴉盟《ウーヤーモン》襲撃。至急援助を求む』 「まだ朝だぞ……。いつから鴉は夜行性じゃなくなったんだ?」 |墨余穏《モーユーウェン》は独り言を呟きながら、神通符を手で握り潰し、|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ向かった。 昨日行った裏庭ではなく、|墨余穏《モーユーウェン》は正面の門が見える場所へ移動し、高い木の枝に登って身を潜めながら全体を見下ろした。 すると、ちょうど|青鳴天《チンミンティェン》率いる鴉の大群と、|葉風安《イェフォンアン》たちと各門派たちの数名が対峙しているのが見える。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》の|一恩《イーエン》と|一優《イーユイ》はいるが、|師玉寧《シーギョクニン》の姿はないようだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はどこか安心を得るように心を撫で下ろしていると、突然緑琉門の門主・|葉誉《イェユー》の怒声が境内全体に響き渡った。 「どういうつもりだ! |青《チン》少主! 娘はやらんと何度も言っているだろう! 何故こんなことをする! |天文山《てんもんざん》の掟に反するぞ!」 「ふんっ。何が掟だ! 今や力のない天文山の掟など、くだらねぇ! 生きてるか死んでるかも分からねぇ、あの盲目のジジイの言うことなど聞く必要ねぇーだろ」 黙って聞いていた|葉風安《イェフォンアン》が、声を荒げる。 「|道玄天尊《ドウゲンテンズン》を侮辱するな! お前たちのせいで三神寳が無くなった今でも、あのお方がいらっしゃるからこうして均衡を保てているのだ! お前たちの領地にも、どれだけ尽力してくださっているのか分からないのか!」 「黙れ! 貴様、誰に向かって口をきいてぇんだ! あのジジイが尽力だと? 寝言は寝て言え! 我々、鳥鴉盟を追放したのはあのジジイだぞ!」 |青鳴天《チンミンティェン》は怨色を見せながら、唾と悪声を飛ばした。怒りが収まらないといった様子で剣を鞘から抜き出し、その漆黒の刃を門派たちへ向ける。 「俺に勝てたら続きを聞いてやる。さぁ、かかってこいよ!」 |葉風安《イェフォンアン》以外は一斉に剣を抜き出し|青鳴天《チンミンティェン》に刃を向けた。|葉風安《イェフォンアン》は胸元から翠緑の羽根扇子を取り出し、バッと天を仰ぐように開く。すると、その羽根扇子から見る見る大きな風が渦を巻き始め、|葉風安《イェフォンアン》が羽根扇子を振り下ろすと同時に、鳥鴉盟の門弟たちを勢いよく吹き飛ばした! (おいおい、どこが弱いだよ|風立《フォンリー》。強いじゃないか! ) 木の上から見下ろしていた|墨余穏《モーユーウェン》は、口に葉を咥えながら関心する。 |葉風安《イェフォンアン》は負けじと攻撃を加え出した。 胸から鳥の形をした呪符を取り出し、「オウギバシ」と唱え、その呪符を羽根扇子で仰ぐようにして飛ばした。すると、呪符からオウギバシが浮き上がり、|青鳴天《チンミンティェン》を攻撃し始める。|葉風安《イェフォンアン》は、自然界のものを自由自在に操れる特殊な仙術を持ち合わせており、武力や剣術が無くとも十分に戦える相手だ。 |葉風安《イェフォンアン》が操るオウギバシは、鋭い嘴で|青鳴天《チンミンティェン》の腕や顔の皮膚を引き裂き、血が滲むような深傷を負わせていく。 しかし、突然どこからともなく飛んできた細長い二本の|蛾嵋刺《かびし》が、オウギバシの胴体を射抜いた。 オウギバシは瞬く間に地面にひれ伏し、風が去るように目の前から消えていく……。 「いやはや、そんな術があるとはね。凄いな天文山の連中は。噂通りだ」 威圧的な気配を捲し立てて突如舞い降りてきたのは、あの最強の突厥|阿可《アーグァ》だった。 「|阿可《アーグァ》殿! お待ちしておりました!」 血まみれの腕を隠しながら、|青鳴天《チンミンティェン》は|阿可《アーグァ》に迎合する。 |阿可《アーグァ》はそんな|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥し、鼻で笑った。 「お前、弱いんだな」 |阿可《アーグァ》の侮辱とも取れる思わぬ発言に、|青鳴天《チンミンティェン》の拳に僅かな力が入ったのを、|墨余穏《モーユーウェン》は見過ごさなかった。 (完全な従順って訳ではなさそうだな) |墨余穏《モーユーウェン》は|阿可《アーグァ》たちの様子を見ながら、枝の尖った部分で右手の甲を勢いよく滑らせ、意図的に出血させた。胸元に忍ばせておいた呪符を取り出し、垂れ下がってくる血を呪符に付着させる。 自らの血を分け与えることによって、呪符の効力は三倍に及ぶ。|墨余穏《モーユーウェン》は自分の出る幕を伺いながら、引き続きその場で様子を見守った。 「んで、こいつら全員始末すればいいのか?」 |阿可《アーグァ》は薄気味悪い笑みを浮かべて、|青鳴天《チンミンティェン》に尋ねた。 |青鳴天《チンミンティェン》は傷に触れながら頷き、脇に身を寄せる。 |葉風安《イェフォンアン》は、また羽根扇子を天に向けて仰ぎ、轟々と音立てながら風を操った。|阿可《アーグァ》と対峙した門派たちも、剣や呪符を駆使して果敢に攻めていく。 しかし、一刻もしないうちに|阿可《アーグァ》と対峙した門派たちは次々と|阿可《アーグァ》に攻撃を躱わされ、一撃を加えられてしまう。 剣を折られ立ち上げれない者、血を吐きながら倒れ込む者、|阿可《アーグァ》の威力は凄まじかった。 遂に堪忍袋が切れた|葉誉《イェユー》は、地面に|神呪《しんじゅ》を唱え、|刀印《とういん》を結んだ。 「鴉か突厥か何だか知らんが、この土地と娘は誰にも譲らん! わしを殺したければ殺せばいい。だが、お前たちも諸共死ぬように神呪を唱えた! さぁ、やってみろ!」 威勢よく|葉誉《イェユー》は言葉を放ったが、|阿可《アーグァ》は腹を抱えて笑い始めた。 「あははははっ! そんなので俺に勝てるとでも思ってるのかジジイ。俺はな、呪を解くのが得意でね。親切に唱えてくれた神呪もこれで無効だ」 |阿可《アーグァ》は|環《かん》と呼ばれる紐のついた|壁玉《へきぎょく》を首からぶら下げて見せた。 「特殊な壁玉でさ、どんな呪符も呪文も躱わせちゃうってわけ。悪いが、時間がないんだ。そろそろ終わりにしよう」 黄ばんだ歯を見せながら、|葉風安《イェフォンアン》と|葉誉《イェユー》に攻撃を加えようとした刹那、首からぶら下がっていた壁玉の穴に何者かが投げた蛾嵋刺が当たり、壁玉はバリっと砕け、蛾嵋刺はそのまま|阿可《アーグァ》の胸に突き刺さった。 |阿可《アーグァ》は口から血を吐き、胸元を庇うように倒れ込んだ。 皆、何が起きたのか分からないでいると、木陰から一人の男が一つに結った長い髪を揺らしながら歩いてくる。 「はははっ、余所者のお前も大概弱いぞ」 「|墨逸《モーイー》兄!」 |墨余穏《モーユーウェン》に気づいた|葉風安《イェフォンアン》は目を輝かせて、手を振る。 横にいた|葉誉《イェユー》は目を丸くし、 「本当に|、墨余穏《モーユーウェン》なのか……」と呟いた。 |墨余穏《モーユーウェン》は|葉誉《イェユー》に拱手をしながら近づき、「お久しぶりです、|葉《イェ》宗主」と挨拶する。 久しぶりの再会に|葉誉《イェユー》は目の淵を潤わし、|墨余穏《モーユーウェン》の腕を撫でた。 周りにいる他の門派たちも、|墨余穏《モーユーウェン》の存在を知っている者は感嘆し、知らない者は"かつての殺し屋墨余穏"と言われた張本人を目の前にして、憧れの視線を向ける。 草むらの脇で休んでいた|青鳴天《チンミンティェン》も|墨余穏《モーユーウェン》の存在に気づき、苦虫を噛み潰したような顔で言葉を投げた。 「なぜお前がここにいる! 俺が殺したはずだぞ!」 「誰がお前みたいな弱い奴に殺されるかよ! 俺はただ意識を失くしただけだ」 「何だと?! お前はあの日、確かに死んだはずだ! 俺の一撃で……」 |墨余穏《モーユーウェン》は|青鳴天《チンミンティェン》の元へ行き、言葉を遮るように目の前でしゃがみ、|青鳴天《チンミンティェン》の前髪を掴んだ。 「今日はお前に何もしないが、次はただで済むと思うなよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は抜からぬ顔で、唾を吐き捨てるように言い放った。 すると、|青鳴天《チンミンティェン》は「クソっ!」と嘆き、恨めしそうな顔で|墨余穏《モーユーウェン》を見遣る。 そして、また負け犬の遠吠えのように叫んだ。 「お前をもう一度、必ず殺してやる!!」 「あぁ、いつでも来いよ。いつでも相手してやる」 |墨余穏《モーユーウェン》は勢いよく|青鳴天《チンミンティェン》の前髪を放ち、その場を離れた。 悔しさを滲ませ、唇を噛んでいた|青鳴天《チンミンティェン》は、鳥鴉盟の修士たちに連れられて、カラスが遠くへ飛んでいくように紫色の袍を広げて消え去った。 |阿可《アーグァ》の元に移動した|墨余穏《モーユーウェン》は、|阿可《アーグァ》の姿を見るなり顔が引き攣る……。 中身だけが抜け落ち、衣の端切れだけが残った奇妙な残影は、誰が見ても気持ちの悪いものだった。 「モ、|墨逸《モーイー》兄が向こうで話してる間に、きゅ、急に煙のようなものが出て、消えていったんだ……」 |葉風安《イェフォンアン》が口元に羽根扇子を当て、怯えながら怪談話をするかのように話す。怖いものなしの|墨余穏《モーユーウェン》は、衣の端切れを触り、手掛かりを探った。 「こいつは人間じゃないのか?」 「分からぬ。超人であることは間違いないな……」 |葉誉《イェユー》はそう言いながら立ち上がり、|葉風安《イェフォンアン》に支えられながら、衣に付いた埃をはらう。 「|阿可《アーグァ》の抜け殻は、わしが天台山へ持っていく」 |葉誉《イェユー》はそう言って、|阿可《アーグァ》の抜け殻を手に取った。また日を改めて遊びに来い、と言われ|墨余穏《モーユーウェン》は二人の背中を見送り、解散となった。 事を終えた|墨余穏《モーユーウェン》は、突然強烈な眠気に襲われ、欠伸が出始める。 (そうだ、昨日は水仙の香りに惑わされ、一睡も出来なかったんだよなぁ……) |墨余穏《モーユーウェン》は、目を擦りながら踵を返そうと振り向いた刹那、真後ろにいた男に気づかず正面からぶつかった。 |墨余穏《モーユーウェン》の目には、襟元から青色の線が入った白い衣が映る。 水仙の甘い香りが鼻腔を通過した途端、息を呑むほど胸の鼓動が高鳴った。 |墨余穏《モーユーウェン》は恐る恐る目線を上げ、その眩しい容貌の全てを受け止める。 するとそこには、黄玉の瞳を揺らした秀麗な想い人……、 |師玉寧《シーギョクニン》が立っていた。 「|賢寧《シェンニン》兄……、久しぶり」 |墨余穏《モーユーウェン》はそう呟き、|師玉寧《シーギョクニン》に笑みを向けるやいなや、睡魔と内丹の功力が限界を迎え、|師玉寧《シーギョクニン》の胸元に倒れ込んだ。 まるで、あの時のように━︎━︎。それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ
「シェ……、|賢寧《シェンニン》兄……」 「人様の家で何をしている」 |師玉寧《シーギョクニン》の目は据わり、幾重にも連なる氷瀑の先が今にも頭上に落ちてきそうな刺々しい雰囲気を纏っている。|墨余穏《モーユーウェン》は額に冷や汗を滲ませ、口元を引き結ぶ。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は続けた。 「何故、勝手に出て行った?」 「そ、それは……」「何だ?」「俺がいると迷惑かなっと思って……」 視線を合わすことに耐えかねた|墨余穏《モーユーウェン》は、俯きながら|師玉寧《シーギョクニン》から向けられる冷たい視線を逸らした。 師玉寧は深く溜め息を吐き、墨余穏に言う。「私がいつ迷惑だと言った?」「……だって、俺がずっと側にいたらさ|賢寧《シェンニン》兄の好きな人が嫌がるでしょ。だから、俺とは居ない方が……」 |師玉寧《シーギョクニン》は|墨余穏《モーユーウェン》の言葉を遮ったと思ったら、墨余穏の胸ぐらを勢いよく掴んで逞しく引き締まった己の身体に引き寄せた!「私に二度と心配をかけさせるな!! 分かったか!!」 深雪のような白い肌が血に染まるが如く、師玉寧は血相を変えて怒鳴りつけた。感情的な|師玉寧《シーギョクニン》を初めて見た|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず顔を引き攣らせ怖気付く。 |師玉寧《シーギョクニン》は更に声を荒げた。「お前は、黙って私の横に居ればいい!!」「で、でも、それじゃ……」「でも何だ?! まだ何か文句があるのか?! これ以上無駄口を叩くならば、霊符に封印するぞ!!」「……」 |師玉寧《シーギョクニン》の黄玉の瞳が激しく揺れている。 その瞳の奥から、猛獣の如く獲物を独占したいという欲望が溢れていた。墨余穏はどうする事もできず口を閉ざす。 師玉寧からようやく胸ぐらを解放され、墨余穏はよろけた身体を立て直し、そっと首元を整えた。 |水仙玉君《スイセンギョククン》は、|墨余穏《モーユーウェン》に背を向け、声だけを墨余穏に向ける。「|緑琉門《りゅうりゅうもん》へ急ぐぞ。|風立《フォンリー》が危ない」「……何があったの?」 |墨余穏《モーユーウェン》は怪訝そうに訊ねると、|師玉寧《シーギョクニン》は小さく溜め息を漏らし、言葉を繋げた。「突厥に捕まったと神通符が届いた。その中にはお前を襲った|呂熙《リュ
|墨余穏《モーユーウェン》の心の水面は凪の如く落ち着き、正気を取り戻すと、|趙沁《ジャオチン》の言っていた|栄穂村《ろんすいむら》に到着した。 古い家屋が並び、奥にはだだっ広い田畑が広がっている。 その横には馬や牛、山羊などの動物たち飼育されており、酪農の独特な香りが漂っていた。 「ここが僕たちの住む村だよ。僕たちは皆農家なんだ。五十人も満たない小さな村だけど、皆仲良くやっているよ」「へぇ。そうなのか。ちなみに、|趙沁《ジャオチン》は何を作ってるんだ?」「僕は、山羊を飼育している。ここの村の山羊肉やお乳はとっても美味しいだ。良かったら食べていかない? 後でご馳走するよ」 山羊肉が好物な|墨余穏《モーユーウェン》はそれを聞いて、口の中を涎で満たした。 墨余穏は溢れてくる生唾を飲み込みながら、案内された家まで趙沁を運ぶ。すると、趙沁の背負われた姿に気づいた村の長老が、何事かと顔を曇らせて駆け寄って来る。「|趙沁《ジャオチン》! 一体どうしたんだ! 何があったんだい?!」「あ、|長豊《チャンフォン》さん。いやぁ〜、山道を下ろうとしたら足を滑らせてしまって。ちょうど近くにいたこちらの|墨逸《モーイー》仙君に助けてもらったんだ」 長老の|長豊《チャンフォン》はそれを聞いて、|墨余穏《モーユーウェン》に小さく頭を下げた。続けて、「あまり無理をするな」と|趙沁《ジャオチン》に言うと、長豊は墨余穏の背中から降りようとする趙沁の背中を支え、椅子に座らせた。趙沁の様子に安堵したのか、長豊がゆっくりと顔を綻ばせる。「仙君。うちの村の者を助けてくださり、ありがとうございました。礼は尽くしますので、今しばらくこちらでお待ちください」 「あ、|長豊《チャンフォン》さん、僕の所にある山羊の肉もお願いできる?」「あぁ、分かったよ! 茶も持ってくるから、ゆっくりしていな」「礼には及ばない」と|墨余穏《モーユーウェン》は言うも、長豊は全く聞き耳を持たず、外へ出て行ってしまった。 |趙沁《ジャオチン》は鼻を掻きながら墨余穏に言う。「気にせず甘えていいから。僕も|墨逸《モーイー》ともう少し話がしたいから、ここにいて」「なんか、申し訳ないなぁ。ありがとう」 |墨余穏《モーユーウェン》は控えめな笑みを見せた。 すると、|趙沁《ジャオチン》がおぼつかない足取りで、薬
物々しい雰囲気が漂う鴉の住処で、|鳥鴉盟《ウーヤーモン》の|青鳴天《チンミンティェン》は、虚な目をして黒石の冷えた床に額を付けていた。 「お前はまだ、|緑稽山《りょくけいざん》を仕留められないのか?」 石の床が僅かに震えるほど低い威圧的な声が、青鳴天の耳に襲い掛かる。「はい……」と震える声で答えながら、青鳴天は更に額を床に擦り付けた。 「お前は一体、どこで何をしている。天台山の力が弱まった今、我々が天下を取れる千載一遇の好機なのだぞ。|阿可《アーグァ》と手を組んでやっているというのに、お前と来たらこの有り様か。これ以上、私を絶望させないでくれ」 「……申し訳ありません。父上」 自分の倅だというのに、居丈高で有名な鳥鴉盟の盟主•|天晋《ティェンシン》は、害虫でも見るような目で青鳴天を見下ろしていた。 天晋は、僅かに肩を震わす|青鳴天《チンミンティェン》に向かって、更に言葉を振り下ろす。 「かつてお前が殺したはずの|墨余穏《モーユーウェン》が生きていると聞いた。まさか、それも仕留めそびれていたと言うんじゃないだろうな」 「ち、違います! 確かに私は奴を殺しました! けれど……」 青鳴天は顔を上げ、先日墨余穏と屈辱的な再会を果たしたことを、嫌悪感混じりに話した。 「━︎━︎あれは確かに、あの時のままの|墨余穏《モーユーウェン》でした。どうして甦ったのか、私にも分かりません」 「妙な話だ」 |天晋《ティェンシン》は伸びた髭を弄りながら|青鳴天《チンミンティェン》を見遣る。 青鳴天は続けた。 「巷の噂では、奴は今|寒仙雪門《かんせんせつもん》に身を寄せていると聞いています」 「寒仙雪門? 相変わらず|師《シー》門主も変わり者だな。あのような者を匿ったとて、何一つ良いことなどないのに」 「そうです! 父上の仰る通りです! あの者はもう一度私が必ず……」 |天晋《ティェンシン》は、お前がか? とでも言いたげに、|青鳴天《チンミンティェン》を一瞥した。 その背筋が凍るような視線を感じた青鳴天は、それ以上言葉を繋げることができず、唇を噛みながら俯いた。 「ふん。まぁ、いい。奴は最後の砦にしよう。先ずは|緑琉門《りゅうりゅうもん》からだ。それから|寒仙雪門《かんせんせつもん》へ行けば、奴は自ずと消えるだろう」 天晋は陰湿な笑